河童の手

雲仙は、その昔、温泉(うんぜん)と書かれておったそうな。今は雲仙に統一されたが、温泉(うんぜん)岳・温泉(うんぜん)神社などに、温泉の表記が残っておる。

この温泉の山をお開きになったのは、行基という有名なお坊さんで、大宝元年(701)に温泉山満明寺を建てたのが、始まりということじゃ。
満明寺は瀬戸石原に300坊、別所に700坊の僧坊を有する大寺であったそうじゃが、島原の乱で仏教諸寺院はみんな、焼かれてしもうた。

島原の乱のあと、島原のお殿様の高力忠房が、満明寺(まんみょうじ)を復興し、温泉山満明寺一乘院(いちじょういん)としたのじゃ。この一乘院に、赤峰法印(あかみねほういん)という偉いお坊さんが住んでいたそうな。

お山の中腹あたりにあるいまの「諏訪の池」には、そのころ悪いカッパの太将がおったと。

なんでも、このカッパの大将、手下どもを集めて湯の町にあらわれ、女や子供にいたずらをしたり、麓の小浜まで下りて行って網を破ったり、悪いことばかりしておったのじゃ。
「これは困ったことじゃ。何とかしてカッパの太将をこらしめねばならぬ」こう思った赤峰法印はカッパの太将に戦いをいどむことになったのじゃ。

さて、カッパの神通力と赤峰法印の仏力(仏さまの力)の二つがぶつかり、どちらも死力をつくして争うたそうな。ところが、三日三晩たっても、どうしても勝負がつかなんだ。
たまりかねた赤峰法印は、考えたあげく、負けたふりをして、お山の方へ逃げたのじゃ。勝ったと思うたカッパの大将は、その勢いにのって赤峰法印をどんどん追いかけたそうな。
そして、とうとう地獄道にさしかかったときのことじゃ。もうもうと湧きのぼる地獄の煙と熱気でカッパの頭の皿の水が蒸発してしもうた。

さあ大変。大切な皿の水がなくなったカッパの大将は神通力を失って、そのままパッタリと道に倒れてしもうたのじゃ。
「カッパの手」は、その時赤峰法印が退治したカッパの手だけを、もぎとって残しておいたものだそうな。

<長崎の昔ばなし 第二集話 河野伸枝を加筆編集しました>